東京高等裁判所 昭和40年(う)304号 判決 1965年6月30日
被告人 武田清
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は宇都宮地方検察庁検察官検事池田貞二作成の控訴趣意書記載のとおりであるからこれを引用し、これに対し当裁判所は次のように判断する。
所論は原判決が被告人に対し懲役三年但し執行猶予五年の刑を科したのは軽きに失し不当であると主張し、その理由とするところを第一ないし第三項目にわたつて詳細に論じているので、本件記録及び原審において取調べた証拠を仔細に検討するとともに当審における事実取調の結果をも参酌して審究することとする。
第一 所論は、まず、妻に不貞があつたとしても、至高の法益であるその生命を奪うことは絶対に許されないことであつて、他にとるべき方法があり得ない筈はないとし、本件における被告人の妻キミイ(昭和二年八月二十五日生)(以下キミイという。)とその相手方となつた原田宗昭(昭和十七年二月二十一日生)(以下原田という。)との不倫な関係を解消するためには被告人、キミイ、原田の三名が互に直接会つて話し合うこと、或は同人らのほか原田、キミイの上司である大田敏夫及び被告人の上司である大野勘蔵をも交えて話し合うこと、又はキミイに対する意見説得をその両親に依頼することなど平穏裡に解決する余地があつたと考えられるのに拘らず、被告人はその方法を講ずる努力を尽さなかつたと主張する。
よつて先ず被告人の経歴、生活環境、本件犯行の経緯について考察してみるに、被告人は父武田武平の長男として出生し小学校卒業後、農家の子守奉公や徴用工となり現役兵として軍隊生活をしているうち終戦となつて帰郷し、その後農業に従事中、昭和二十二年一月頃キミイと見合い結婚をし同女との間に二男一女(長女セツコ昭和二十四年二月四日生、長男操昭和三十年六月九日生、次男浩二昭和三十三年二月一日生)を儲けたが、生来言語障害のせいもあるのか口下手で、いたつて口数も少く自己の意のあるところを他人に伝えてこれを説得するというような能力も乏しいため、温厚ではあるが内気で引込思案な消極的性格をもち、酒、煙草の類も嗜まず、昭和三十六年五月頃から日光市所野所在谷田貝建設株式会社(以下谷田貝建設という。)(会長谷田貝千年之助)の常傭土工人夫として至極真面目に仕事に励み、右谷田貝会長からもその実直さを買われて目をかけられていた。他方、キミイは勝気な性格で、昭和三十八年十二月頃から同市七里所在共和コンクリート株式会社日光工場(以下共和コンクリートという。)の人夫として稼働するようになつたが、それまでは被告人の家庭は夫婦仲もよく、至極円満で喧嘩口論をすることもなく細々ながらも平和な生活を送つていた。ところが、昭和三十九年四月頃キミイが十四年も年下の同じ職場のブロック製作工である原田と懇ろとなつて情交関係を結ぶようになつてからは当然のことながら、次第に家庭内に風波が立つようになつたのである。
すなわち、その頃まもなくキミイの不倫な素行を察知した被告人は、驚愕の余り強く同女を責めてその反省を促したところ、キミイは一応自己の非を認めて被告人に謝罪し今後は絶対原田とは交際しないと、誓つたものの、それも束の間のことでやがて再び原田との交渉が始まり、勤め先の終業時刻が遅くなつたとか、会社に用事があるとか、いろいろな口実を設けて家を出歩き、とかくの噂も憚ることなく被告人の目を盗んでは依然原田と不倫の関係を続けていたのである。
そこで被告人としても相手の男が年下であるだけによけい世間態も悪く、なんとかしてキミイが早く本心に立ち帰るよう折りをみては同女に意見らしいことを云つてみても、キミイは二言目には別れ話を持ち出して始末におえず、剰え、被告人の目前で臆面もなく原田の衣類を洗濯するなどして、これを見かねた被告人が三度に一度位注意すると、「だつて頼まれりやしかたなかんべ」などと却つて口答えする始末で、全く被告人を馬鹿にしきつた態度をとるようになつたばかりでなく、年ごろの長女セツ子に対しても「きようは彼氏とデートだよ」などと口にすべからざる言葉を平気で漏すようなこともあつた。そして、同年六月初頃には相変らずキミイの帰宅の遅いのに立腹した被告人は遂に松薪で同女の後頭部を殴打しその反省を求めたほどであつたが結局、後で被告人の方が謝罪するだけのことに終つて一向にその効き目もなかつた。更に、被告人としては、キミイを原田の身辺から遠去けるため共和コンクリートをやめて谷田貝建設で自分と一緒に働こうと提案したことも数回あつたが、同女は頑として聞き入れず、「谷田貝で働くんならこんなところにいない」などと相変らずの口返答に全くとりつくしまもないので、幼い子女を抱えて日夜煩悶しながらその解決策に苦慮したあげく、思いあまつて上司の谷田貝千年之助夫妻や大野勘蔵(谷田貝建設の専務取締役)をはじめ、さらにはキミイの同僚である藤原シナや共和コンクリートの炊事婦をしている斎藤初代にまで、恥を忍んで自己の苦衷を訴え、それとなくキミイや原田に対する意見ないし説得方を懇願する等それ相応の努力を尽した跡も十分窺われるのである。(もつとも、被告人の実父武平とは昭和二十五年三月十二日当時被告人夫婦が父と同居中キミイの失火によりその居住家屋を焼失するという出来事があり、そのため居づらくなつた被告人が青森県の炭鉱へ一家を挙げて出稼ぎをするようになつて以来音信不通の不仲の間柄となつていた関係上本件についての相談もできなかつた状態であつたのである。)。ところが、一方、原田は、昭和三十七年頃から昭和三十八年十月頃まで他所で七年も年上の女性と同棲し、同女を二回懐姙させたこともあるという経歴の持ち主であつて、昭和三十九年四月頃キミイと情交関係を結んで以来、同女が有夫の身であることを知りながら、敢てみずから身を引こうともしないばかりか、かえつて積極的にキミイとの性的交渉を継続しようとの態度に出で、その間見かねた上司の大田敏夫や同じ職場に働いている前記藤原シナから注意を受けてもこれに従う素振りは全く見られなかつたし、他方、また、キミイは、被告人との夫婦関係の不満もあつたためか、年下の原田との情事に耽つて他を顧みる余裕なく、ひたすら同人との逢う瀬を楽しんで日を重ねる始末で、その間両名の不倫の関係はますます深く進展していつたものと思われる。現に証人谷田貝千年之助の当審公判廷における、自分は、事件の一箇月前頃キミイの不倫の関係を知り、その後被告人から善処方相談されたことが二、三度あり、キミイに注意したのに左様なことはないと否定されたことがある、二人を呼び寄せ意見するほど深入りしているとは思わなかつた旨の証言や斎藤初代の司法警察員および検察官に対する各供述調書、藤原シナの司法警察員に対する供述調書、大野勘蔵の司法警察員に対する昭和三十九年八月二十一日付供述調書の各記載ならびに原審証人大野勘蔵の証言等によつても、キミイと原田との関係が他人の忠告や関係人の話合いで簡単に解決するような根の浅いものではなく、もはや抜きさしながらぬ状態にまで立ち至つていたものと考えられる。従つて、仮に所論のような処置がとられたとしても、果してそれでキミイと原田との関係が清算され得たであろうと断言することができるかどうかいささか躊躇せざるを得ないところである。
もとより、事の成否を問わず、とるべき措置はあくまでもこれを講じておかなければならない。この意味において検察官の所論それ自体には別段の異議はない。しかしながら、前述のとおり、本件については被告人としても自分なりに全力を傾倒して妻の身にまつわる不倫関係の解消に努力したものであることが十分看取されるのではなかろうか。妻の不貞の故に至高の法益であるその生命を奪うことが許されるなどというのではない。また、今はすでに幽明その境を異にし、みずから一言の弁明をもなし得ない不幸なキミイにすべての責任を帰せしめようとする非違を敢て犯そうとする趣旨でもない。ただ当裁判所としては、被告人が殆んど見るべき努力をなさずして一人で悩み、妻のみを責め、姦夫たる原田に対して毅然たる態度をとらなかつたため、本件の如き事態を招くに至つたとも謂いうるのであるとして、ひたすら被告人を責めようとするのは、諸般の状況にかんがみ、いささか酷に過ぎるものがありはしないかと思うのである。
第二 次に、所論は、本件が幼児の面前で全く無抵抗の状態にあつたキミイに対し一方的に攻撃を加えて行われたもので、しかも斧をもつて頭部を滅多打ちして殺害した極めて残虐かつ兇悪な犯行であり、また、これによつて幼い子供から母を奪い、彼らに終生拭い去ることのできない陰惨残酷な印象を与えた影響は計り知れないものがあり、被告人の責任は頗る重大であると主張する。右所論はそれ自体として洵に肯綮を突くものである。本件をいかに残虐、陰惨な犯行といわれても、被告人としては返えす言葉もない筈である。しかしながら、平素温厚、無口な性格で、不倫の楽しみに耽溺して憚らぬ自己の妻をさえろくろくたしなめることもできないばかりか、かえつて逆に妻からやりこめられてしまうような弱気な被告人がなぜこのようなひどい犯行をしたのであろうか。ことここに至るまでの経緯は原判決が詳細に判示しているところである。キミイからは、ことあるごとに別れ話を持ち出され、他方、また、頼りに思う人びとに説得方を頼んでみても一向に効き目も見えず、全く手も足も出ないような破目に陥りながら、なおも口実を構えて原田と不義の快楽をかさねているキミイの跡を追いまわしているみじめな夫の姿がそこに認定されている。被告人の心中に、キミイに対する断ちがたい男性としての愛着の念があつたことはたしかである。しかし、また、それと同時に幼い子供たちの将来を思う父親としての配慮の念のあつたことも、証拠上これを否定することができない。被告人には本件犯行の直前までキミイに対する殺意はなかつた。そればかりか、妻との喧嘩を子供に見せたくない気もあつて、わざわざ自宅の玄関前でキミイの帰宅を待ちうけていた。そして素知らぬ顔をして立ち戻つて来たキミイに、「どこへ行つてきたんだ」と声をかけたところ、同女は「どこへ行つたつていいんじやないか」と言い捨てたまま、無雑作に、二児のいる四畳間に上つて来て、そこに坐り込んでしまつた。そこで、また、口喧嘩が始まつたのである。その際キミイが被告人に向つて一言でも詫びれば恐らくその場は無事にすんだであろうと思われるのに、勝気なキミイはそれをしなかつた。そればかりか、被告人に背を向けたまま又もや「どこへ行つてもいいじやないか。」などといつて被告人をやり返えしている(ちなみに、その日キミイが日光市宝殿町二十七番地の旅館一松荘で原田と情交して来たことは、証拠上明らかであるが、なお、そのほかに、疋田和夫作成の鑑定書によると、キミイの胃内容物にアルコールの含有が認められることは注目に値する。)そこで日ごろうつ積していたキミイに対する被告人の憤懣の念は遂に爆発して、はからずも原判示のような兇行を演じてしまつたのである。被告人が手斧を手にしたのはことさらに物色したり又は予めそれに目星をつけておいて持ち出して来たわけではなく、たまたまそれが不幸にも手近かなところにあつたため、とつさにこれを取り上げたのである。しかも、被告人としてはその手斧の刃部でキミイを殴打したのか、いわゆるみね打ちにしたのかも必ずしもはつきりとは意識していないようである。この際における被告人の気持は実に複雑微妙をきわめていたものと察せられる。単純な憎悪の念ともいえず、さればといつて、また単なる愛着あるいは嫉妬の念ともいいきれないであろう。しいて言えば、「これほど云つても俺の気持がわからないのか。」という悲痛などうこくにも似た心情であつたと推認するほかはないようである。そして一回殴ると恰もせきの切れた川のように更に殺気立つて二回、三回と殴りつけ、遂に見るも無惨な結果を招来してしまつた。当然相手の原田に対して示さるべきいわゆる毅然たる態度が、気弱で内攻的な性格の故に歪曲された形で妻キミイに向つて爆発したのである。全くの偶発犯であり、そして、また、典型的な激情犯でもある。しかし、いずれにせよ、結果的には残虐な方法で自己の妻キミイの何ものにも代えがたい至上な生命を奪つたのである。そして、また、それによつて、幼い子供らから母を奪い、彼らに終生拭い去ることのできない陰惨残酷な印象を与えてしまつたことには間違いないのである。そこで問題は、ことここに至るまでの主観的、客観的な情状をいかに評価し、また、母を失つた不幸な幼児らの将来をどのように考え、被告人に対してどのような量刑をすることが客観的正義に合致するとともに具体的妥当性を完うするゆえんであるかということに帰する。
第三 そこで、所論は、更に進んで、最高裁判所大法廷の判旨を援用しつつ、傍ら現行刑法の殺人罪の法定刑と強盗罪、放火罪あるいは強盗傷人罪の法定刑との権衡にも論及しながら、このように貴い人命を奪つたものに対する処刑が懲役三年で、しかも五年間執行猶予ということでは、よく世間一般の道義的観念を満足させるであろうか。そして、また、この種事犯の防止、治安の維持が果してこれで保てるであろうかとの疑問を提出し、およそ、犯人の主観的心情に同情するのあまり、殺人等の重罪を犯した者に対する刑罰が軽過ぎることは治安維持の一般的要請に答えるゆえんではない旨強調する。いかにも、「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い。」と判示している最高裁判所大法廷の判旨は銘記されるべきものである。また、所論指摘の殺人罪と強盗罪、放火罪ないしは強盗傷人罪の各法定刑相互間の権衡論、さらには、また、刑法改正準備草案において、殺人罪の最低法定刑を五年の懲役にまで引き上げているとの点は、洵に傾聴すべき見解である。しかしながら、わが刑法における殺人罪の法定刑の範囲が、他の犯罪のそれにくらべて、著しく広きにわたつているのは、いうまでもなく、諸外国の立法例には、謀殺と故殺、重い殺人と軽い殺人など各種の類型を区別して法定刑を異にしているものもあるが、わが刑法ではその区別を設ける必要を認めないとの建前をとつている関係上、同じく殺人罪の構成要件に該当する事例のうちにも、その動機、態様その他の点において千差万別の要素を包含するものがあるのは当然なことであるから、裁判所において、これらの要素をつぶさに勘案しつつ適正妥当な量刑を行うことができるようにしておくことが望ましいとの配慮に基くものであつて、この趣旨は刑法改正準備草案においても変ることなく維持されていることは明らかである。そればかりでなく、現行刑法では強盗傷人罪の最低法定刑を懲役七年と規定しているのに対し、刑法改正準備草案ではこれを懲役六年ということにして、犯情によつては執行猶予を付しうる途をひらいていることも忘れてはならないであろう。いかに殺人罪とはいえ、裁判所としては、一面人命尊重の建前を忘れず、被害者およびその関係者の立場をないがしろにしてはならないことはもち論であるが、他面、また、被告人のため有利な諸般の経緯ないし情状をできうる限り斟酌し、情に流れず、理に偏せず、中正妥当な量刑を行うことに努めなければならないことは、多く異論の余地がないものと思われる。本件につき原審が被告人を懲役三年に処し、これに五年間の執行猶予を付した理由については、原判決が詳細にこれを説示している。その説くところは、単に被告人の主観的心情を過大評価し、責任を被害者キミイのみに転嫁することによつて被告人の責任の重大性を看過しようとする趣旨のものでないことは一読明瞭である。すなわち、証拠によつて被告人の殺意を認め、その心神耗弱の主張を却ける反面、本件犯行の遠因、近因をあまねく審究することによつて事案の真相を把握し、あらゆる角度から被告人の責任を適正妥当に評価すべく努めるとともに、武田セツコの司法警察員に対する供述調書の末項に記載してある「わたくしは、お父さんとお母さんでどちらが悪いかわかりません。お母さんは死んでしまい、お父さんが警察に行つているのでわたくしたち子供だけですから、早くお父さんを家に返して下さい。お願いします。」との一語によつても十分窺える如く、今や家庭からその母を失い、今後せめては残る父親たる被告人の庇護の下にひそかなる一家団欒の生活を童心のうちに待ち望んでいる子供たちの身の行末をも案じ、深思熟考のうえ、遂に被告人に対して執行猶予の判決を言渡すべく最後の断を下した経過が窺われるのであつて、その判断は必ずしも不当なものとは思われない。また、関係証拠によつて明らかなとおり、本件の関係人として取調べを受けた者は、当の相手方たる原田本人を除き、皆異口同音にキミイの臆面もない乱行を非難するとともに、これを怺えに怺えてきた夫たる被告人の心情に対し深甚な同情の念を表して憚らないのみならず、被害者キミイの両親にあたる山口三好夫妻も原判決言渡し後の昭和四十年一月九日取調べを受けた検察官に対し、キミイの行状が悪かつたことでもあり、今更死んだ娘が帰つて来る訳のものでもないから将来被告人の家族が一緒に暮して行けるよう切望する旨供述していることが窺われるのである。本件事犯の内情を知つている世間の人たち―幸にもなんら法網に触れずしてすんだ当の相手方たる原田をも含めて―は、被告人に今一度人の子の親としての更生と贖罪の機会を与えた原判決を聴いて、恐らくは、いずれも皆ほつとして安堵の吐息を漏らしたことであろう。事情を知る人びとが真に納得しうる裁判こそはじめてよく一般の道義的観念を満足させるものといえるのであり、そしてまた、それは、一般予防と特別予防の調和を意図する刑政の目的にも合致するものといわなければならない。いずれにしても、本件検察官の所論中に幾多の傾聴すべき点が含まれていることは、先にも指摘したとおりである。被告人としてはこれを将来における自戒の鑑みとしなければならない。しかしながら、当裁判所が被告人の性格、年齢、経歴、家庭環境、生活態度、本件犯行の動機、態様、罪質、被害者の遺族に与えた情神的、物質的損害、社会的影響、犯罪後の被告人の心境等あらゆる情状を勘案し、検察官所論のすべてを検討参酌した結果によれば、原判決が被告人に対し懲役三年但し執行猶予五年の判決を言渡したことをもつて、必ずしもその量刑軽きに失して不当であるとは認められないのである。結局論旨は理由がない。
よつて、刑事訴訟法第三百九十六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 樋口勝 小川泉 金末和雄)